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パレスチナ問題

パレスチナ問題の起源
 パレスチナは、第一次世界大戦前まで、オスマン帝国(オスマン=トルコ、1299〜1922)の領土でした。第一次大戦の最中、イギリスは、戦争協力要請のため、ハーシム家(イスラム教を創始したムハンマドの生家)のフサインにアラブ国家の独立(シリア、レバノン、トランスヨルダン、イラク、サウジアラビア、パレスチナに相当する場所)を約束しました。しかし、第一次大戦後の1920年、イギリスは、旧トルコ領をイギリス・フランスで分割し、パレスチナへのユダヤ人の移住も認めたのでした。この1920年に、パレスチナにおける最初のアラブ人による反英・反ユダヤ闘争がありました。
 実は、イギリスは第一次大戦中に、ユダヤ系財閥ロスチャイルド家など英米在住のユダヤ人の援助をとりつけるために、ユダヤ人にもパレスチナにユダヤ人国家を作る事を約束していたのです。
 当然、アラブ側は激怒し、サウド家がハーシム家を追放してアラビア半島の大部分を統一し、1932年にサウジアラビアを建国しました。一方、イギリスはフサインの子をそれぞれイラク国王、ヨルダン国王にして、英連邦に編入したため、アラブの単一国家建設は果たせなかったのでした。

イスラエル共和国の建国
 国家なきユダヤ人が、宗教的故郷シオン(イェルサレムの雅名)に復帰建国しようとする運動(シオニズム、Zionism)は、1897年の第1回シオニスト大会から高揚していました。第二次大戦後の1947年パレスチナをユダヤ・アラブ両国家に分割するという、「パレスチナ分割案」が国連総会で提案された。アラブ側は、これに拒否しましたが、翌年の1948年にイギリス委任統治が終了し、イスラエル共和国(現在のイスラエル国)が建国されました。ユダヤ人は、約2000年の時を経て祖国を再建したのでした。
 イスラエル共和国が誕生した直後、イスラエル共和国とイスラエルの建国を認めないアラブ側との間でパレスチナ戦争(第1次中東戦争)がありました。パレスチナ戦争は、イスラエル共和国の勝利に終わりましたが、約100万人のアラブ人がパレスチナを追放され難民(パレスチナ難民)となりました。
 アラブ諸国のリーダー的存在であったエジプトでは、敗戦の原因が王政の腐敗にあるとして、エジプト革命が起こり、1956年にナセルが大統領となりました。この頃、ロシアではフルシチョフのスターリン批判や東欧のことで忙しかったため、米・英が強きに出て来て、アスワン=ハイダム建設費援助を拒絶しました。このため、ナセルは1956年7月にスエズ運河国有化を宣言した。これがきっかけとなり第2次中東戦争が始まるのですが、国連の即時停戦決議とソ連のエジプト支援声明のまえに、侵入軍は撤退しました。これは、アラブ民族主義の勝利で、ナセルの株はグ〜ンと上がりました。

パレスチナ解放機構(PLO)
 イスラエルに奪われた土地と権利回復のため、パレスチナ人が1964年に結成した解放機構。これは、アラブ連盟が支援する公的機構であり、イスラエルへのゲリラ闘争を展開しました。その後、1967年に、第3次中東戦争(イスラエルの先制)、1973年に、第4次中東戦争(アラブ側の先制)がありました。国連は、1974年にパレスチナ人の自決とPLOを承認し、1976年にはパレスチナ国家の建設を承認しました。なお、アラファトがPLOの議長になったのは1969年のことです。

その後
 1979年、エジプト、イスラエルの両国首班がエジプト−イスラエル平和条約に調印しました。その直後、エジプトはアラブ連盟を脱退し、アラブ18カ国とPLOは、エジプトと断交状態になりました。1981年、エジプトの首都カイロでサダト大統領が熱烈なイスラム原理主義者に暗殺され、エジプトの対イスラエル和平路線に暗い影を落とした。
 1982年、イスラエル軍がレバノンに侵攻し、首都ベイルートを包囲。ベイルートを本拠としていたPLOはレバノンを撤退した。
 1991年、米ソが中東和平会議を開催。イスラエルと周辺アラブ諸国とPLOが初めて一堂に会した。
 1993年、イスラエル(ラビン首相)とPLO(アラファト)は、相互の承認と、イスラエル占領地(ヨルダン川西岸、ガザ地区)でのパレスチナ人の自治で合意した。しかし、ラビン首相は、1995年にイスラエルの右翼青年に暗殺され、和平交渉は頓挫してしまう。右翼青年は、「パレスチナは神から与えられた土地であり、全域をユダヤ化するのが神の御心にかなう」とコメントしている。
 1996年、パレスチナ評議会選挙の結果、ヨルダン川西岸及びガザ地区において自治を行うパレスチナ暫定自治政府(PA)が成立。
 2000年、イスラエルの右派政党リクードのシャロン党首がエルサレムのイスラム教聖地(ハラム・アッシャリーフ、神殿の丘)を訪問。この地がユダヤ教徒の聖地だと誇示する狙いでしたが、パレスチナ側が猛反発し、イスラエル軍とパレスチナ過激派が衝突した。
 2001年、右派政党リクードのシャロン党首がイスラエルの首相になる。
 2003年4月29日、パレスチナ解放機構(PLO)のアッバス事務局長を初代首相とする新内閣を賛成多数で承認。アッバス内閣が発足。米国は、パレスチナ紛争解決の道筋を示した新和平案(ロードマップ)を公表し、イラク戦争後の対中東政策の最大課題であるパレスチナ和平の仲介に積極的に動き出す。(ロードマップ計画は、イスラエルとパレスチナの双方に協力や譲歩を求めているが、実際には、パレスチナ側にはもう失うものが何もなく、イスラエル側に大幅な譲歩を求めた形になっている。)
 2003年7月29日、シャロン首相はパレスチナ自治政府が猛反発しているヨルダン川西岸での分離フェンス建設について「引き続き続行する」と明言した。フェンスは1967年の第三次中東戦争前の境界線よりも自治区側に大きく食い込む個所もあることからパレスチナ側が強く批判、米も懸念を示していた。
 2003年9月6日、イスラエルとの対話路線を進めたパレスチナ暫定自治政府のアッバス首相が、アラファト議長との対立から突然の辞任。アラファト議長を「和平の障害」とみる米政府は、アッバス首相を新たなパレスチナの指導者としてもり立てた。しかし、自治政府内部で首相は「イスラエルに譲歩しすぎ」と批判され、孤立が深まっていた。
 2003年9月19日、国連総会は、パレスチナ問題に関する緊急特別会合を開き、パレスチナ自治政府のアラファト議長追放を決定したイスラエル政府に追放措置の撤回を求める決議を賛成133、反対4、棄権15で採択した。総会決議は安保理決議と違い法的拘束力はないが、国際社会の大多数が結束してイスラエルを非難する姿勢を示す形となった。
 2003年10月15日、パウエル米国務長官は、パレスチナ自治区ガザで起きた米国外交団を狙った爆弾テロを受け、パレスチナ自治政府のクレイ首相と電話で会談、アラファト議長が実権を握る治安部隊を即座に掌握し、テロ組織壊滅へ向けて指導力を発揮するよう強く促した。
 2003年11月12日、パレスチナ自治政府のクレイ首相ら新内閣の閣僚24人が、アラファト自治政府議長を前に宣誓、クレイ内閣が正式に発足した。
 2003年12月5日、イスラエル有力紙マーリブが掲載した世論調査によると、シャロン首相を支持するとの回答が33%、不支持が59%に達し、今年2月の第二次シャロン連立政権の発足以降で最低の支持率となった。パレスチナとの衝突長期化による国民の不満が背景にあるとみられる。
 2004年1月30日、イスラエルは、ヨルダン川西岸で建設中の分離壁の合法性について審議する国際司法裁判所に対し、同裁判所がこの問題を審議することに異議を唱える供述書を提出した。イスラエル紙ハーレツ(電子版)によると、米英仏独など30カ国以上や欧州連合(EU)からも同様の異議が相次いでいるという。

関連リンク
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